加茂紙とは
加茂紙とは何か?何故、加茂において和紙が製造されていたのか?
少し難しいですが、加茂市が発行した、『加茂市史(資料編5:民族)P183:第二節』からその理由を紹介します。
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加茂紙は主として七谷地区で製造されていた和紙である。出荷地の地名で「加茂紙」と呼ぶことが多いが、「七谷紙」とか「二千枚紙」とも呼ばれていた。
(中略)
七谷地区の紙漉きの歴史は古く、寛永期(1624~44)以前から村松藩の「御用紙」として生産されていた。御用紙というのは、藩へ納める年貢米の一部を紙に替えて納めるものである。近世中期頃になると、販売用に生産された市紙(いちがみ)・商紙(あきないがみ)・渡世紙(とせいがみ)などと呼ばれる紙が出現して他地方にも販売された。
紙を漉くには原材料のほか、きれいな水と大量の燃料が必要である。積雪があれば原料を雪晒しできるので寒い季節がよい。季節限定の仕事であるので農家の副業に適していた。七谷地区は沢沿いに開けた集落であり、森林地帯にも近く、山から流れ出る自然の流水が豊富で燃料も雑木のほか杉枝や杉葉などたくさんあって、紙漉きをする環境に適していた土地柄だったといえる。
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また、『加茂市史(下巻)』P614によると、
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明治43年の紙漉戸数は260戸で七谷村総戸数の43.5%にあたる、この年の村内主要生産物の総産額は223,546円に対し、和紙の産額約50,000円は22%を占める。米の6万6千余円についで2番目であった。明治42年に新潟県農会がまとめた「副業調査前篇によると、新潟県和紙生産額88,906円、中蒲原郡が39,310円、七谷村は34,188円で、中蒲原郡の87%、新潟県の38.5%を占め、当時の和紙生産地としては新潟県で最も生産額が多かった。明治27年の一農家の作業日誌によれば単に冬期間のみでなく、8月にも紙漉を行った記録がある。
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このように、加茂紙は、加茂市の歴史になくてはならない産業であり、また現在の加茂市にとって、必要不可欠な伝統文化・伝統技術といえます。
加茂紙は、加茂市で生産(出荷)されていたものは、広い意味では、「加茂紙」と呼ばれています。
現在は、加茂産の原材料(※)にこだわった、「ななたに」を中心に、足りない材料を外国産も使用しながら「加茂紙漉場」にて「加茂紙」を生産しています。
※「楮」「トロロアオイ(つなぎ)」を加茂(七谷地区)で生産しています。