北越の小京都 加茂
加茂市は新潟県のほぼ中央に位置し、古くから北越の小京都といわれています。「北越」とは、越後(新潟県)と越中(富山県)の総称です。
加茂、上条、狭口、加茂新田、下条、七谷、須田などが合して加茂市になりましたが、市内には、由緒ある神社や寺院も多く、自然的、歴史的景観に恵まれています。
加茂の鎮守社が青海神社で、上条、狭口の鎮守社が長瀬神社ですが、両社とも平安時代に書かれた「延喜式神名帳(927年)」にもその名が記されている古い神社です。
加茂の地が京都の賀茂神社の社領となり、青海神社の鎮座地に上賀茂神社と下賀茂神社の祭神が分霊されたことから、「加茂」と呼ばれるようになりました。
青海神社
長瀬神社
明治時代にこの加茂と上条、狭口、加茂新田などが合併して加茂町となり、さらに昭和29年、30年に下条、七谷、須田が合併して現在の加茂市となりました。このようにして「加茂」が市の名前になっているわけです。
さて、戦国時代。加茂地域は上杉氏の支配下にありました。加茂山公園の一角に要害山と呼ばれる砦跡、即ち加茂城跡があり、歴史のひとコマを現在に残しています。その後、上杉景勝が会津へ国替えさせられると、七谷は村松藩、そのほかの大部分は新発田藩領として、江戸時代後期まで過ごすことになります。
慶長17年(1612年)の新発田藩の文書によると、「新発田藩領加茂組」と呼ばれていました。また須田は「鵜之森組」と呼ばれていました。万治3年(1660年)加茂の大庄屋浅野三郎右衛門は、加茂の町割りや市場の設置、江川の整備などを行いました。
いま加茂市は、恵まれた環境の中で、福祉が充実し、教育が充実し、産業が栄え、文化とスポーツが盛んなまち、市民の皆様お一人おひとりを大切にし、幸せにするまちを目指しています。
川と橋のまち 加茂 地形のもたらすもの
面積は約134平方キロメートル。東西約17キロメートル、南北約8キロメートル。東西に細長くかなり広いが、その多くは山林です。東は山岳地帯、その最高峰粟ヶ岳を水源に加茂川が市内を縦貫するように流れ、扇状地を形づくります。
この加茂川は市街地を二分しているため、まちには橋が多い。特に市街地では約2キロメートルの間に8本もの橋が架かっています。
市街地の中を川が流れるという地形は市民に恵みをもたらすとともに、災害も与えてきました。加茂川は過去何度も氾濫を繰り返しましたが、特に昭和44年の大水害は、死者9人を出すなど壊滅的な打撃を与えました。しかし、その後、川幅を2倍に広げるなど抜本的な河川改修を行った結果、現在では水害の心配はほとんどなくなりました。加茂川の景観も大きく変わり、今では川辺は市民の憩いの場になりました。
市街地を山から見ると、加茂川を中心とした扇状地の様子や住宅が加茂川沿いから平野部にかけて広がっているのがよく分かります。市街地に突き出しているのが加茂山。写真奥に見える高い山は弥彦山です。
雪椿のまち 加茂 その自然
新潟といえば雪。豪雪で有名な高田など、上越地方と比べれば少ないが、それでもかなり降ります。特に山あいにある七谷地区では積雪2メートルもめずらしくありません。このため。加茂市は特別豪雪地帯に指定されています。
この多雪地帯に咲くツバキが南国に咲くものと別種だと分かったのは戦後もすぐのこと。新潟県で初めて花や葉、樹形が異なるものが発見されユキツバキと命名されました。ユキツバキは加茂山公園内にも群生しています。このことから、ユキツバキは新潟県の木として、また、加茂市の花として指定されています。
ユキツバキは日本海側に限って分布するもので、北限は田沢湖付近、南限は滋賀県北部といわれています。しかし、新潟県内ではあちこちの山にあり親しまれていました。加茂山にはユキツバキのほかヤブツバキもあり、その中間型も見られます。比較してみるのも面白いでしょう。
加茂山公園内には野生種のほかに、1000種以上あるという園芸品種のうち約100種、1300本のユキツバキを見ることのできる雪椿園があります。4月の雪椿まつりになると、そこで多くの市民が花見の宴を楽しんでいます。